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Channel: 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」
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西ゴート王国

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モンゴル草原の遊牧騎馬民族・匈奴は、秦の始皇帝の昔から
中国軍と仁義なき抗争を続けてきた。中国側は匈奴を恐れ、
万里の長城を築いて対抗した。それほどの強敵だったという事だ。
ドン川の東、カスピ海北岸に住むフン族は、匈奴の支族とも
言われている。375年フン族はドン川を渡河して西に侵攻
した。そこはゲルマン系東ゴート族の領土だった。

フン族が他国を侵略するには、寒冷化+異常気象で牧草が枯れた
とか、羊が伝染病で全滅したとか、部族の死活問題に関わる切迫
した状況があったに違いない。古代の侵略戦争は大体どの部族
でも、男は皆殺し、女は奴隷として捕獲するのが常識だった。
東ゴート族もフン族に蹂躙され、壊滅した。この惨状の情報は
すぐにヨーロッパ中に広まり、史上名高いゲルマン民族の大移動
へと発展してゆく。

現ウクライナのドニエプル川西側に居住していた西ゴート族は、
ドナウ川を渡り、ローマ帝国領に避難する道を選んだ。ローマ軍
に補助兵を差し出すから、難民として受け入れて欲しいとローマ
皇帝ウァレンスに願い出て、これを許された。ただ当初10万人
だった難民は、他部族も便乗して30万人に膨れ上がっていた。

難民30万人が居住し耕作する土地は何とかなるにしても、農業
は種を蒔いて収穫するまで半年から1年かかる。農機具も要る。
トラキア(現ブルガリア)の行政官は、収穫までの生活補償を
しなかった。
「ローマは信用ならねぇだ」
と、西ゴート難民はやむなくギリシャ北部で略奪を始めた。

ここで皇帝ウァレンスがトラキア長官の首を差し出し、
「ギリシャでの急ぎ働きは不問に付す」と和解する道もあった。
だがウァレンスは西ゴート族の討伐を決意した。378年8月
ウァレンスはアンティオキアから首都コンスタンティノポリス
(現イスタンブール)へ向けて兵3万を従えて出立。西ゴート軍
3万も、トラキアからコンスタンティノポリスへ向けて進軍。
両軍は9日、ハドリアノポリス(現エディルネ)で激突した。

結果はローマ軍の惨敗だった。夕刻までに兵2万が死傷し、大隊長
35人、高官2人が戦死。皇帝ウァレンスも負傷し、逃げ込んだ
小屋で焼き殺されてしまった。戦いに勝利した西ゴート族はトラキア
を占領し、ローマ帝国中央部に、けっこう大きな顔して武装したまま
居座った。

395年ローマ帝国が東西に分裂したこの年、アラリック1世率いる
西ゴート軍は、ダキア(現ルーマニア・ハンガリー西部・モンテネグロ)
からイタリア半島に侵入した。さすがにローマを占領されたくないので、
支配が及ばなくなっていたガリア(現フランス)とイスパニア(現スペイン)
を守ってくれるならば領有を認めるという交渉に持ち込み、アラリック
1世はこれに応じた。

アラリック1世の後継者・ワリアは、418年に南ガリアのトロワ
(トゥールーズ)を首都とする西ゴート王国を建国。西ゴート族は
キリスト教アレイオス(アリウス)派を信仰していた。アレイオスとは
250年アレキサンドリア生まれのキリスト教司祭で、創造主は
ユダヤの唯一神のみで、子なるキリストは神の被造物とした。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世・2世を受洗した
司教エウセビオスも、アレイオス派だった。(詳しくは辻邦生著/
背教者ユリアヌスを読んでみてちょ) 三位一体に反対するこの宗派
は、325年のニケーア公会議で異端となり、451年のカルケドン
公会議で再度異端宣告を受けた。ともあれ地上にキリスト教を国教
とする王国が出現したことには違いない。


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