和御魂(にぎみたま)奇御霊(くしみたま)
幸御霊(さきみたま)、荒御霊(あらみたま)の四魂は、
直霊(なおひ)という一霊に集約される。直霊とは
神の分霊(わけみたま)であり、ゆえに人は誰もが皆、
神の子である。これが神道の根本的概念であり、
おそらく日本人でなければ理解出来ないかもしれない。
聖書文明社会で神の子といえば、イエス・キリスト
以外にはありえない。これは動かしがたい真理であり
絶対の教義なのだ。ゆえに人はイエスの信者か、悪魔
の信者か、無神論者かとして精神世界を漂流している
のである。
直霊のことを、ユング心理学では自己(セルフ)と表現
している。それは個人の内なる神であり、究極の自分自身
である。私たちの意識と無意識全てを統括し、生命の意味
と役割を教えてくれる自我の本体である。夢の中では、
得も言われぬ光と暖かさ+充足感として現れる。イエスは
「神は愛なり」と言い、インドの賢者は「汝それなり」と
示した。仏教では梵我一如が適切な表現だろう。
だが究極というくらいだから、セルフ発見の旅は困難の連続
となる。本能の嵐に翻弄され、環境と教育などによって刷り
込まれた観念や偏見、信念の幻想が立ちはだかる。第一自我
の関心は、自分の外側に向かう性質がある。自己の内面探究
は苦痛だからだ。神の本質である愛と光も、自己の外側に
求めようとする。その理想像の代表がイエスと言える。
「汝それなり」で間違いやすいのも、それを外側の対象だと
勘違いして学習しようとすることにある。パソコンについて
ならば、外側の対象だから学習出来る。けれど神について、
愛について、光について学習すればするほど、周辺の知識は
蓄積され、神学者や哲学者にはなれるだろうが、内なる神
という本質は取り逃がし続ける。何生にもわたって。頭脳明晰
な人ほど、この罠にはまりやすい。思考法がそういう風に
プログラムされているからだ。
気づくためには、外から内に方向を変えるだけでいい。求めて
いれば、その気づきをサポートしてくれるソウルメイトが必ず
現れる。あるいし準備が整った時、必ず師が現れる。これは
私自身も体験した宇宙の摂理なのだ。